『コミュニケーションは、要らない』

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

コミュニケーションが要らないと言ってるのではなく、この国にはほんとうの意味でのコミュニケーションが存在しないと言っている。

日本のような大きな国を一括りにするのはとても危ういのだが、東日本大震災以降の言説を見ているとそう言いたくなるのもわからんではない。たとえば原発についても、原発がそこにあることが是とされた時点までさかのぼって考えないと責任ある発言にならないというようなことを言っている。そりゃそうだ。関東圏の人間が福島県の人間に感情移入するのはちがうだろとも言ってる。そらそうだ、福島原発の電気を使ってきたのは関東の人間であって、同じレベルで語れるわけがないのだ。

そこから原発核兵器はセットであるということ、核を持たないという選択をしつつ原発は作るという矛盾に話が広がっていく。国のあり方を考えるとき国防を意識することは必須なのだろうが、私にはそういう知識がまるごと抜け落ちている。まあ押井さんレベルのミリオタになるつもりはないけどな。

次になぜこのような無責任な言説があふれるようになったかについて、言文一致がよくないとか、言葉を多義的に使用しているうちに日本語が堕落したとかそんな話。まあどうでもいい。

最後に震災後においてファンタジーはどうあるべきかという話になるわけはなくて、「もの作りの契機ということにおいて、女にフラれたことと震災体験は等価であるべきなのだ」という名言。いいね。どんな大災害だろうとひとりひとりにとっては個人的な体験にすぎない。被災してひどい目にあったことと、失恋が等価であるはずがないし、比較可能だとも思わない。しかしもの作り(ここではフィクションを作ること)の契機という観点からは同じということはありうべき。